日時:2025年9月27日(土曜日)
午後1時30〜3時 (希望者は講座終了後に「藍の学校」オンライン参加)
会場:京都市立芸術大学 C棟3階「講義室7」
参加者:28名
現代アートとは何でしょう。興味がないという人でも、漠然としたイメージは持っていると思います。そうでないと「興味がない」という反応すら起こらないでしょう。ましてや現代アートが「好き」あるいは「嫌い」という人は、もっとハッキリしたイメージを持っているでしょう。しかしここでは、興味がある/ない、好き/嫌いということはとりあえずカッコに入れて、そもそもなぜ「現代アート」のようなものがあるのか?という問題を考えることから始めてみたいと思います。
現代アートがなぜあるのか?という問いは、より正確に言い換えれば、それはなぜ文化として成立しているのか?という問いです。興味がない、嫌いだという人でも、現代アートが文化として価値を認められている(芸術大学ではそれが教えられ、作品は美術館で展示され、市場で売買される)という事実は否定できません。この事実を作り出したのは、およそ19世紀後半以降、過去約150年間の歴史です。その期間に芸術の世界に生じた、モダニズムと前衛運動という出来事が、現代アートを産み出す直接の歴史的条件となっています。
カント(1724-1804)は18世紀後半に活動した哲学者ですから、もちろんモダニズムも前衛も知りません。では彼の時代の「現代アート」──この言葉はもともと英語の"contemporary art"(同時代芸術)の訳ですから──はどうでしょう? 18世紀後半のアートは、ロココの美術やモーツァルトの音楽など、今の私たちにとっても馴染みのあるものですが、カントはそれらについてもよく知っていたという形跡がありません。嫌いだったわけではなく、たぶんあまり興味がなかったのだと思います。
にもかかわらず、カントが1790年に出版した『判断力批判』という本で展開した美的判断についての考え方は、19世紀以降の芸術の変容について考える上でも、決定的に重要と考えられてきました。「批判(クリティーク)」という概念は、日本語では「批評」「評論」とも訳されますが、カントの「批判」は個々の作品や作家が良いとか悪いとか論じるものではなくて、そもそもそれが「なぜあるのか」つまり「芸術として成立するのか?」という条件を問うものです。つまりアートの内容ではなく形式に注目し、アート作品に限らず自然物も含めて、私たちが美的経験をするとき心の中にはそもそも何が起こっているのか?ということを考えました。
こうした「カント美学」の観点から、私たちの時代の現代アートはどのように見えるのか、ということを考えてみたいと思います。(吉岡 洋)