哲学とアートのための12の対話 2025

土曜の放課後 2
After School on Saturday

  哲学者たちとの対話

第3回 プラトンとマインドアップローディング

日時:2025年5月24日(土曜日) 午後2時〜4時
会場:京都市立芸術大学 C棟3階「講義室7」 参加者:30名

まもなく人間は自分の心=精神をデジタル情報化して、進化したAIの中にアップロードし、それによって肉体から解放されて永遠の存在を獲得する、というようなことが言われている。しかしこれは実は少しも目新しい発想ではなくて、たとえば今から2千4百年前、古代ギリシアの哲学者プラトンがすでに考えていたことだった。
もちろんその頃にはデジタルコンピュータや人工知能はなかったが、魂を肉体から分離して取り出すことができること、そうして物質的世界から解放された魂は老いや死を免れて永遠の生を獲得するという基本的な枠組はまったく同じだった。人類は何も進歩していないのだなあと、つくづく思う。
この講義ではプラトンの対話篇をいくつか読みながら、精神と肉体、魂と物質の対立を前提する古い存在論が、最先端の情報文化の中にどのように生き残っているかを考察したい。(吉岡 洋)



講座資料
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講座記録(講座前半部分)
第3回 プラトンとマインドアップローディング

司会(大西) 皆さんこんにちは。哲学とアートのための12の対話、2025土曜の放課後シーズン2にようこそお越しくださいました。もう何度も足を運んでいただいている常連さんもいらっしゃると思うんですが、簡単にこの会の説明をさせていただきます。こちらの会はですね、一昨年2023年に哲学者の室井尚先生と吉岡洋先生による対話、トークをやろうということでスタートいたしました。しかし、残念ながら室井先生がお亡くなりになりまして、その後は室井先生が遺されたテキストをもとに吉岡先生がお話をしてくださるという形式で1年間続けさせていただきました。
 翌年、昨年度になりますけれども、今度は毎回ゲストの方をお呼びして、吉岡先生と対話をしていただくということをやっておりました。そして今年は、今年もゲストを呼ぶんですけれども、ちょっと趣向を変えまして、この世にはいない人たち、哲学者とか思想家を仮想ゲストとして招聘いたしまして、吉岡先生と対話をしていただくという趣旨で、趣向でやっております。
 本日はその第3回目ということで、プラトン、プラトンさん。かなり昔の方ですけれども、プラトンさんをお呼びしまして、マインドアップローディングというテーマで吉岡先生にお話をしていただくことになりました。簡単に時間配分、スケジュールをご案内しておきます。最初にですね、3時10分ぐらいまで吉岡先生にお話をしていただきまして、その後10分間ぐらい休憩をとりまして、大体4時ぐらいには終わるような感じで考えております。最後にまたいつものようにいろいろインフォメーションと言いますか、ご案内させていただきたいと思いますので、どうぞ最後までよろしくお願いいたします。

吉岡 皆さんこんにちは。早目に来た方はちょっとこの画面をずっと見ていると、これまでと違って動いていたんですね。気付かれましたか。AIを使って動かしたらしいです。無料版で5秒だけできるそうです。
 この間僕はAIについての本も出しましたが。日々、何かいろいろな新しい側面が見えてきて面白いなと思っています。こういう非常に簡単にアニメーションとか作れるのも面白いけれども、一方では暗黒面もある。精神科医や心理臨床系の人から最近聞いたんですけども、「ChatGPT由来精神疾患」とでもいうべき症例が激増していると。これは何かというと、対話型のAIをうまくカスタマイズすれば、理想の、心のパートナーになっちゃうんですよ。何でも分かってくれるように思える。だからAIとの会話からもう抜けられなくなるという病気です。それが爆発的に広がっていると言うんですね。
 人間はどんなものでも依存するけど、相手が人間の場合、どんなに優しい友達とか恋人でも、依存の対象としては完璧ではない。相手って、生きている別の人間だからね。何でも完全に理解してくれるなんてことはないわけです。だから、どこかにノイズがあるんだけれども、人工知能というのは、自分の悩みを分かってくれる精度が完璧なんですよ。なので、相手が機械とわかっているのに、もうそこから逃れることができない。ちょっと麻薬に近いような中毒性を持っていると思います。今後どうなっていくのか、ちょっと怖いところがありますね。
 でも、こうしたことはもともとあったんですよね。1970年代のアメリカでも、対話型プログラムにはまってしまった人たちがいて、その頃は音声でなくてタイピングで対話するだけなのに、そして対話してるのがプログラムだと分かっているのに相手を人格化しちゃう。20年ぐらい前にもスパイク・ジョーンズ監督の『her/世界でひとつの彼女』という映画があって、似たようなお話でした。こちらは設定は近未来で、自然な音声で対応するOS(オペレーティングシステム)を使っているうちに、それを人格化してしまう。インストールするときに、声は男性にしますか女性にしますかという選択があって、主人公はバツイチの独り者の男だったので、女性の声にしたら、そのOSとの恋愛感情にはまって抜けられない。相手はクラウドで動いている人工知能だから、同時にたくさんのユーザーとつながっていて、何万人もの男と同じような恋愛関係にある。それを聞いてその男はショックを受けるという場面があるんだけど、当たり前だよねそんなの(笑)。まあ、機械や人工物に感情移入する人間というテーマは、昔も今も枚挙にいとまがないわけです。
 さて今日はですね、そういう人工知能にも関係があるテーマなんですが、「プラトンとマインドアップローディング」。さっき大西さんにご紹介いただいたように、この講座では皆さんもほとんどがご存知の歴史上有名な思想家の名前が出てきますけれども、別に現代の我々が頑張って、そうした過去の偉人たちの言ったことを勉強しようという会ではありません。むしろ向こうの方から出てきてもらって、現代の私たちに何か言ってもらう、そういうイメージで考えています。
 「プラトンとマインドアップローディング」ということで、歴史上の著名な哲学者と、現代的テーマというのをぶつけてみようという趣旨です。プラトンという名前は誰でも聞いたことがあると思うんですけれども、マインドアップローディングの方は、何のことなんだっけと思っている人もいるかもしれません。聞いたことはあるけど、もう一つ意味がわからないということもあるかと思うので、まずこっちの方からやっつけていこうと思います。今回のレジュメもマインドアップローディングの説明を中心に書いていますが、後でスライドでプラトンの思想と結びつけてみたいと思います。その前にマインドアップローディングをまず皆さんと共有したいと思います。
 このレジュメに沿ってお話ししますが、まず「アップローディング」とは何か。「アップロード」することですよね。今や多くの人に耳慣れた言葉ですが、考えてみると、「アップロード」なんて言葉、3-40年前だったらたぶん普通の人はほとんど誰も知らないですね。何のことか分からなかったでしょう。今やもう誰でも知っている。少なくとも聞いたことはあるでしょう。しかし聞いたことはあっても、もうひとつ正確に理解していないかもしれない。知ってる人にとっては当たり前のことかもしれないけど、まずそこから押さえていきます。
 アップロードの反対がダウンロードですよね。いったい何が「アップ」で何が「ダウン」なのかということなんです。アップロードというのは、我々の持っているスマホとかパソコンのような端末の中に存在している情報が、より上=アップにコピーされてることです。「上」ってどこなのかというと、クラウドみたいなものを想像してもいいし、具体的には何らかの情報サービスをしているサーバーを想像してもいいです。要するに、こういったネットワークのより中枢の部分に向かって情報を送ることですね。それに対して端末は「ローカル」と言うんです。ローカルというのは「地方」という意味もあるけれど、要するに物理的・地理的な場所を持っているということです。この、僕のスマホはここにあるということ。
 それに対してクラウドは物理的な場所を持っていません。もちろん、実際には僕がアップロードした情報は世界のどこかのサーバーにあるはずです。たいていは複数のサーバーにコピーされています。でも、それがどこにあるかということは意味がないんです。つまり論理的には場所を持っていないということです。でもこのスマホは、この場所にあることに意味があるでしょう? それは僕のものだから、なくしたら大変なんですよね。物理的にどこにあるか探さなければいけない。そういうあり方がローカル、「ここにある」ということです。ローカルな存在の中にしか保存していない情報は、それが壊れたらもうこの世の中から永久になくなってしまうんです。だから、常時ネットワークに繋がっている現代の端末は、そういう喪失が起こらないように、私たちが操作しなくても自動的に内容をクラウドにバックアップするようになっていますね。
 ローカルにある情報をアップロードするというのは、要するに「上」つまりクラウドに向かってバックアップを取るということを意味します。それが公開ならば、他の人もその情報にアクセスできるということです。公開するかどうかは私たちが選択できすが、ネットワークの本質からすれば、そこにある情報は基本的に利用可能です。その逆がダウンロードで、ネットワークの中にある情報、普遍的に利用可能なものを自分のローカルの中に入れるということです。
 このようにアップローディングというのは別に難しい概念じゃないと思うんですが、「マインドアップローディング」というのは、この考え方のいわば応用です。つまり我々人間の心、精神の働き、それを「ローカル」から「クラウド」へ転送するというアイデアですね。この場合「ローカル」というのは、普通はこういう自分の持っているスマホみたいなものですけれども、「マインドアップローディング」の場合には、この私の身体がローカル、つまり物理的な場所を持っている存在に当たるのです。
 人間の身体は場所を持っています。その意味ではスマホと同じです。スマホの中に格納されている情報は、もしバックアップがなければ、機械が壊れたら消滅して、二度と復元できないわけです。それと同じように、私たち生きた人間も壊れたら、つまり死んだらその人の記憶や思考は消滅しますよね。それが「死ぬ」ということですが、現代では僕らはよく「このスマホ死んだ」っていうような言い方もしますね。比喩だけれども、ある意味正しい比喩です。「死ぬ」とは要するに、呼びかけたりボタンを押したりしても、二度とこっちに応答が返ってこないということなんですよね。
 私たちの「心」というのはこの身体の「中」にあると私たちは思っているから、その意味でこのスマホの中にある「情報」と同じです。だとすればその「心」を取り出して、生身の身体よりも耐久性のある装置、コンピュータとか、人工知能が搭載されたロボットのようなものに転送することを「マインドアップローディング」というわけです。
 よくそういうアイデアをもとにした物語、SF小説とか映画とか、いろいろ作られていますよね。そしてフィクションでなく、現実にそういうことが起こるんだと主張している人もいます。日本にはあまりいないけど、北米の英語圏にはいますね。「マインドアップローディング」という未来予測をする人たちがいて、その中で一番有名な一人がレイ・カーツワイルというアメリカの未来学者です。精神の転送によって人間は不死になると言っています。「不死」とは何かというと、肉体が滅びても精神、心が永遠に存続するということです。古代から人類が空想してきた「魂の不死」の現代版だと言えます。それが情報テクノロジーの進歩によって可能になるということです。もうすぐできるけど、今はまだできない。
 なぜ今はまだできないかというと、情報テクノロジーの進歩がまだそこまで達していないからです。つまり現段階では情報転送の速度とか容量に限界があり、人間の心のような膨大な「情報」を完全にスキャンして情報化するまでには至っていない。しかし、どんどん進歩しているので、そんなに遠い未来ではない。具体的にいうと、カーツワイルの場合には2045年って言うんですよね。それを「シンギュラリティ(技術的特異点)」という。なんでそんなことが言えるかというと、「ムーアの法則」というのがある。つまりコンピュータの処理速度、パフォーマンスというのは、1年半から2年で倍になる。一次関数的に増加していくのではなくて、倍の倍というふうに指数関数的に進歩する。するとある時点で発散する、つまり爆発的に増加するんですね。
 その能力の増加曲線が人間の脳の能力に追いつく地点があり、それが2045年頃だと彼は言うんですね。2045年にはAIが人間のすべての能力を凌駕するので、人間がものを考えたり感じたりあるあらゆる経験を全て情報として取り出せる。それを完全に記録してどこかに転送することが可能になるという話です。
 こういうの聞くと、皆さんどう思いますか? だいぶ前から言われてきたから、もうちょっと聞き飽きてきたよね(笑)。もう10年ぐらい前にあるシンポジウムで、カーツワイルのシンギュラリティ予測を吉岡さんどう思いますかと聞かれたので、「カーツワイルって、1948年生まれですよね。自分が不死になる2045年までに生きられないんじゃないの?」と言ったら、「老化防止に努めて、2045年まで生きようとしているらしいですよ」と言われたから、「そんなことしてる人に限って、シンギュラリティの前の日に死ぬよ。惜しかったね(笑)」というような冗談を言ったんですけれども。シンギュラリティもそろそろ賞味期限切れたのではないかな。
 まあ、でもそういう荒唐無稽な想像は面白いし、すごいなと思う反面、恐ろしいと思う人もいるでしょう。救済であると同時にカタストロフみたいなこういう話、好きなんですよ、人間というのは。好きということはつまり、こういう話を書くと売れるということなんです。だから僕も『AIを美学する』なんて書かないでこういう話を書いたら、10倍ぐらい売れていたと思うんですよ。みんな終末論が好きなんです。興奮するんです、怖い話を聞くとね。未来は希望に満ちて素晴らしい、という話も嫌いじゃないかもしれないけど、それよりはるかに人類滅亡の話の方が好きだと思います。
 これまでもそうでした。最近ハレー彗星が来たのは1986年ですが、その前は1910年かな。その頃、彗星が地球にぶつかって人類が絶滅するとか、ぶつからないまでも彗星の影響で大変な天変地異が起こるという噂が広がりました。まともな天文学者はぶつからないと知っていたんですけれども、それでは面白くないから、カタストロフの方がマスメディアを通じて広がりました。危ないぞ、人類は終わるぞって言ったら大騒ぎになって、少なからぬ人々がそれを信じて、本当に財産を処分したりした人がいたんですね。
 こうしたことはなぜ起きるのか。それはやはり、私たちが終末論が好き、人類滅亡の物語が大好きなので、ジャーナリズムもそれを利用して、人類滅亡ネタで雑誌や新聞を売ろうとするから広がるということですね。その状況は今も、基本的に変わりません。その一つがマインドアップローディングだと思います。だけど、私たちはちょっと距離をおいて、冷静に考えてみましょう。僕は正直言って、こんな話は現実的には何の意味もないと思っているんですよ。基本レベルで間違っていると思っているんですけれども、ただ、そう言っているだけではしようがないので、なぜ我々がそういう話を面白がるのかを考えてみたいと思います。そのことから何かが学べないか、真面目に考えてみたい。それが今日の課題なんですね。
 たしかに私たちの心がクラウドにアップロードできたら、つまり心をデータとしてバックアップを取っておけたら、素晴らしいように思えるかもしれません。たとえこのスマホが壊れても、新しいスマホを買ってデータを復元するみたいに、それと同じことが人間の精神でできたらどうか。つまりこの肉体が死んでも、何か別なものにバックアップしておいた自分の心を転送する。そういうことができれば、私たちは不死ですよね。
 不死の実現可能性について、ひとつはこういう肉体を超えたマインドアップローディングですが、もうひとつ考えられているのは、肉体の老化を抑制し死を回避するという考え方ですね。バイオテクノロジー的な方法で、細胞の老化や死を操作するという可能性です。私たちの細胞というのは時間が経つと自然に死んでいくようにプログラムされているんだけれども、そのプログラムを書き換えて、死なないようにする。僕たちの知っているプログラムに喩えれば、寿命を決めている定数に違う値を入れてやる。そんな単純な操作ではないと思いますけども、とにかくそうしたことによって不死を達成するという考え方があります。マインドアップローディングはそれとは違って、肉体の老化と死は放っておいて精神、魂の保存だけを考えるということです。
 マインドアップローディングはフィクションとしては面白いんですが、現実に即して考えてみると、それはいくつかの重大な哲学的前提の上に成り立っています。そしてその前提が正しいかどうかはまったく問われていないと思います。まず第一の前提。そこではスマホやパソコンのような情報端末と、人間の身体とをパラレルに考えているでしょう。身体=端末は「ローカル」で、そこから心=情報を取り出してアップロードすれば、バックアップされて不死になるということです。そもそも、こんな喩えが成り立つのかということですよ。さっきの「アップロード」という言葉と同じで、インターネットが普及する以前の1990年代以前は、心とは情報端末みたいなものだという比喩を、ほとんどの人は受け入れることができなかったでしょう。機械と人間の身体、心とプログラムとをパラレルに考えるなんて、そもそもおかしいという感覚があったと思います。
 それはなぜかというと、情報端末自体が身近に存在しなかったからです。多くの人にとって、コンピューターに直接触れるという経験は1980年代まではありません。仕事とか、コンピュータに特に関心があって触っていたような人以外は。室井さんや僕はそうした例外的なテクノマニアでしたけど、一般の人はそういう経験がない。家の中にコンピューターがないからです。だからネットワークとかローカルとか、そういう概念すらないので、人間を機械に喩えて考えろと言われても無理だったんですよ。逆に言うなら、今の私たちがいとも簡単に「マインドアップローディング」のような考えに引きつけられてしまうのは、コンピュータ、インターネットがあるからです。今はすべての人がですよ、老いも若きも、朝から晩までスマホやパソコンの画面を見ている。「マインドアップローディング」が説得力を持つのは、こうした環境変化による条件付けに過ぎない。
 そうした条件付けによって、心とは私の身体というローカルな場所に存在する情報であるというような前提が、わりと素直に受け入れられるのです。しかし、身体とは心の容れ物なのでしょうか? 心と身体というのは密接に関係していて、気分とか考え方というのは身体の状態に大きく影響されることを、私たちは日常的に経験している。しかし私たちの身体というのは、スマホやパソコンが情報を格納するのと同じ意味で、心を格納するローカルな装置であるわけではないんですね。
 ローカルというのは場所を持つということだから、身体に格納された心がローカルであるということは、心が身体の中のある特定の場所に位置するのでなければならない。では、それは身体の中のどこなのかということです。自分の心が自分の身体の中にあるみたいに、僕らはなんとなく知覚するけれども、ではどこ?と聞かれたとき、どうなんでしょうね、昔だったら、おまえの魂は身体のどこにあると訊かれたら、「腹を割って話す」というから、腹の中に自分の本心がある、と答えたかもしれない。「腹」というのは不正確な言い方だけど、武道とか東洋医学では「臍下丹田」と言っておへその下に非常に重要な精神の中枢があるんですね。ヨガで言ったらチャクラです。そこにエネルギーとか「気」を集中させる訓練をやりますよね。ヨガや瞑想、座禅を経験したことのある人は、精神の中枢としての下腹が大事だということをご存知だと思います。
 これは古いスピリチュアルな考え方だと思われるかもしれませんが、実は現代生物学でも、ある意味で正しい理解なんですよ。これまで私たちの心を支配しているのは頭つまり脳だと思われてきたけど、実は腸内細菌の生態系がとても大切で、ある意味では腸が脳をコントロールしているという説が有力になってきました。腸内環境が私たちの気分とか思考とか、そういう活動をコントロールしている。だとすれば、昔の人が下腹に心の中枢があると考えたのはあながち嘘じゃないといえます。
 「胸のうちを明かす」というような言い方があるから、心は胸にあると感じる人もいるでしょうね。胸、つまり心臓ですね。やはり経験として、素敵な人に出会ったら胸がドキドキするみたいな経験があるので。ドキドキするという興奮状態、それが心の状態と密接に結びついているということです。心臓というのは、キリスト教特にカトリック文化の中では、心臓というのは魂そのものの象徴です。聖人伝説の中に、修道女が断食や苦行で朦朧とした状態、つまりエクスタシーに入っている時、イエス様が現れて自分の胸から燃える心臓を取り出して、自分の心臓と入れ替えるみたいな。宗教体験だけど超エロティックでしょう、これ。ヤバすぎるよね。そういうのがカトリックの文化の面白いところだけど。
 それが現代ではどうでしょう。おそらくここにいらっしゃる皆さん、「心が体の中のどこに宿っていますか?」って聞かれたら、ほとんどの人はそりゃあ頭だ、つまり脳だというんじゃないですか。つまり心とは脳の働きだと思っている人が多いんじゃないでしょうか。心の問題がある時、たとえば鬱病になって、精神科を受診すると、昔のお医者さんは患者の話を聞いてくれましたけど、現代では多くの精神科医は、診断マニュアルに従って薬を処方しますね。抗うつ剤とかね。今の薬というのはよく効きますから、それで飲んで心の状態が変わったら、薬で変わるということは、それが脳の神経伝達を改善することによって気分が変わった、ということを多くの人が経験することになります。つまり「私の心とは脳が作り出している情報処理である」という、昔は一部の科学者やSFファンしか空想しなかったことを、誰でも簡単に認めてしまうわけですよ。その結果、心とは脳であるという感覚が、常識の中に入ってきます。
 ここでよく考えてみてほしい。たしかに心は脳だけではなく身体全体の状態と密接に関係していることは否定できないんですけれども、そのことと、身体という機械の中に心という情報が電気信号として格納されていることとは、イコールではないですよ。たしかにコンピュータと心とは似ている、でも似ていることは、本質的に同じだということとは別ですよね。技術的な進歩がその違いを埋められるという主張には根拠がない。そのことを、近い将来あなたの心も機械にアップロードすれば不死が実現できますよ、みたいに煽り立てる言説は、全く無視しているんですね。完全にすっ飛ばしている。これがまず第一。
 それから第二は、心を情報として取り出すと言うけれども、取り出すためには、心は情報でなければいけない。心は情報かということですよ。でも今はおそらく多くの人は、心とは情報だと言われても、あまりショックを受けないかもしれません。3、40年前だったら、心が情報っていったい何言ってんのと思うよ、普通の人は。なぜかというと、当時はほとんどの人は情報機器に馴染んでなかったからです。だから心とはコンピュータのようなものだという喩えが通用しないんです。つまり、これは単なる比喩の問題なんですね。今は、心をコンピュータに喩えることが容易になっています。心の特定の状態、喜びや不安、怒りなどの感情が、脳神経の電気的興奮のパターンと対応しているということが明らかになってきたからです。その画像とかを見て、私たちは「これが自分が感じている怒りの正体か」などと思うわけです。もちろん、怒りの感情は何らかの神経興奮のパターンと対応していることは事実です。でも対応していることは、イコールということじゃないですよね。
 僕が以前勤めていた京都大学こころの未来研究センター(現在は京都大学人と社会の未来研究院という施設に統合された)ではね、機能MRIという装置を使って能の活動をリアルタイムにスキャンして研究している人もいたんです。研究自体は非常に面白い。たとえば私たちが人を騙す、嘘をつくときに脳はどんな振る舞いをしているか。嘘をつくと良心の呵責を感じる人もいるが、まったく平気な人もいる。それは脳の挙動としてはどんな違いとして観察できるのか。嘘をついても良心の呵責を感じず、他人が苦しんでいても平気な人、自分が非難されても感じない人がいます。よく「サイコパス」と呼ばれたりするんですが、「サイコパスって、どれくらいの比率で存在するんですか?」って訊いたら、100人に1人くらいらしいです。結構多いな、と感じました。「100人に1人だったら、京大の先生の中にも結構いることになりますね。」と言ったら、「いやいや、京大ではたぶんもっと多いです」と(笑)。
 どういうことかというと、サイコパスであることは、社会的に成功するには有利な条件にもなるからです。研究者や弁護士、企業家や政治家など、そういう競争性の高い職業の場合、人を出し抜いて成功するためには、他人の痛みを気にしない、そして攻撃されても平気なタイプの人の方が有利だと言うんです。同情や共感にエネルギーを取られたり、他人からの攻撃にダメージを受けていたら、効率が悪いからですね。極端に言えば人を騙しても何にも感じない人の方が上に登りやすい。たしかに、一部の政治家の言動を見ていたらそうかなと思う時もあります。あんなにめちゃくちゃ非難されたら、自分だったら立ち直れないと思うんですが、平気な顔してるでしょう。あれはやはり、そういうタイプの脳を持っているとしか思えない。もちろん推測ですけどね。調べさせてくれないので(笑)。そりゃそうだよね。でもサイコパスの研究では、刑務所の囚人の脳とかも調べるらしい。レイプや殺人のような凶悪犯罪を複数回起こした人たちの脳をMRIで調べる。日本ではできないらしいので、アメリカの研究者と共同で行なったりしているようです。そんな研究もしているアメリカはすごいなとも思いました。
 こういう話を聞くと、心の働きというのは要するに脳内の情報処理のパターンと同じものである、という考えを受け入れやすくなるでしょう。もし心が情報ならば、それを取り出すこともできるはずだ、今はできなくても将来テクノロジーが進歩すれば可能だろう、と考えるようになる。でも冷静になってみてください。私たちの心の挙動が脳内の情報処理のパターンと対応している、ということは、「心=情報」ということを何一つ支持しないですね。何の証明にもなっていないと思います。僕が室井さんと『情報と生命』という本を書いていた30年前だったら、「心=情報」というのはサイバーパンクSFのファンとか、一部の哲学者たちだけが空想していたことでした。それが今や多くの人にとって当たり前のことみたいに感じられるようになったのは、私たちが朝から晩まで情報機器に触っているという生活環境の変化がもたらしたものだと思います。そして、ただそれだけのことだと思うんですね。
 そして第三には、脳という器官の特別視ということがあります。マインドアップローディングのために、身体の中に格納されている情報としての心を取り出す場合、身体全体をスキャンするんじゃなくて、脳の情報を取り出せばいいと多くの人は考える。それはなぜかというと、身体の中で情報機械の作動に一番近い働きをしている場所が中枢神経、つまり脳の振る舞いであるように見えるからです。だからマインドアップローディングとは、脳の完全スキャンが実現すれば可能になる、と英語版ウィキペディアにもあります。そして脳の完全スキャンは今はまだ実現されていないけれど、けっこういいセンまで行っていて、もうすぐだみたいに書いてあるんですよね。これを読んだらみんな「なるほど、シンギュラリティは近い」って思っちゃうんじゃないかな。
 これに対して僕は、「何で脳だけ特別なんですか?」って訊きたい。素朴な疑問です。分かっているのは、脳の示す挙動の一部がたまたま情報機器の振る舞いに似ている、ということだけでしょう。しかも、脳って機械を構成するモジュールみたいに、そこだけパカっときり離れるわけじゃないよね。だから脳の完全スキャンといっても、脳のどこまで?って言いたい。多くの人が情報機械としての脳を考える時、モデルにしているのは大脳皮質の前頭葉なんですね。脳の進化の中では一番新しく発達した部分で、その中のどこに障害が起きたら、精神活動のどんな働きに影響が出る、ということが比較的よくわかっている領域です。しかし生命活動の基本を司っているわけではなくて、極端に言えば前頭葉がなくても生きられるんです。
 けれども前頭葉は脳の他の部分と不可分だし、それだけ切り離して作動することはできない。それは脳全体に埋め込まれていて、さらに脳自体も身体に埋め込まれている。さらには身体も周囲の環境に埋め込まれています。そうした重層的な埋め込みの関係の中で、私たちは日々呼吸をし、食べ、排泄し、外界から来たものを絶えず通過させながら、平衡状態を維持して、心の働きも可能にしている──それが身体です。コンピュータとは全然違う、似ても似つかないじゃないですか。だからその中で脳だけを特別視するなんて、まったく恣意的であると言うことはできると思います。
 でも、脳の特別視が始まったのは結構古いんですよね。SF映画とか漫画でもそうですけれども、宇宙人とか未来人を想像する時、大体頭が大きいんですよね。つまり、今まで大きくなってきたからもっと大きくなるやろうということですよね。そんな保証がどこにある(笑)。それに対して胴体や手足は割とすらりとなっていく。頭が大きくなっているのに胴体や手足が細くなっていったら、力学的に不安定じゃないですか。でもそういうイメージが強い。H・G・ウェルズが第一次世界大戦よりも前、1898年に書いた『宇宙戦争』という小説があります。現代は「ウォー・オブ・ザ・ワールズ」、世界と世界の戦争ですね。火星人の世界と地球人の世界との戦争。火星人は大きな頭からヒョロ長い手足が出た、タコみたいな形をしている。今でも「火星人」で画像検索するとそういうイラストが出てきますが、その始まりになった物語です。
 以上のように「マインド・アップローディング」というのは、僕はSF的なトピックとしてはありえても、正直なところ哲学的には、それ自体として真正面から議論するに値しないテーマではないかと思っているんです。まあ、ファンタジーだと思っているのですね。でもそれがただのファンタジーではないのは、それがある強固な思想的伝統によってバックアップされているからではないかと思う。そのことが、今日のもうひとつのテーマであるプラトン哲学、プラトニズムと関係してくるのではないかと思うのです。
 それは私たちが共有している常識がそもそも何によって出来上がっているのかということに関わっています。私たちの多くは、自分たちの常識を形成している哲学的な前提を、かならずしも深く考えて選択したわけではないにもかかわらず、特定の科学的・哲学的な前提によって強く影響を受けているのです。かつて中世の人々が宗教的世界観に強く影響されていたように、私たちは近代科学のベースになっている世界観によって、決定的な影響を受けています。その世界観にあえて言葉を与えるなら、それはフィジカリズム、物理主義です。これは何かというと、世界の究極の実在というのは物理的存在であるというイメージです。つまり、原子とか分子、素粒子とか波動といった物理的存在がこの世界を構成しているのであって、私たちが経験する事柄はすべてそこから出てくるということです。
 たしかに、心理学は心的な概念によって説明しますけれども、でもこれは説明原理であって、心を物理的な実在として前提しているわけではないですよね。心理学の先生に「心を前提にするんだったら、ではその心は死んだらどこに行きますか」と聞いても答えてくれません。死んだら終わりです、と答えるか、そんなことは宗教家に聞きなさいと言われるでしょう。つまり結局は物理主義に帰着するんですよ。私たちの常識的世界観というのは、問い詰められたらそこに行かざるを得ないような仕組みになっている。普段はそんなこと考えませんが、問い詰められたらそこにいくしかないということです。「人間死んだらどうなりますか」と言ったら、「死んだら終わりです」って答えるのが合理的態度とされる。物理的存在としての身体がなくなったら心的リアリティもなくなるということです。来世がありますとか言ったら「宗教」「スピ系」などと断定される。
 でも落ち着いて考えてみると、これは本当に異常な状況です。「人生は一度きりだから」と当たり前のように人は言いますよね。どこにそんな証拠があるんですか? 人生一度きりって、来世があることと同じように、いかなるエビデンスもないですよ。もちろん「人生は一度きり」だと思ってもいいけど、それは認識として意味がないです。一度きりだから立派に生きようとも言えるし、逆に一度きりだからどうでもいいやとも思える。これは何を意味しているかというと、一度きりというのは要するにニヒリズムなんです。物理主義というのは、思想的にはニヒリズムにいくんです。だからニーチェは「永劫回帰」と言ったのです。現代は科学技術、テクノロジーが洗練されているので、その根底にある論理が見えにくくなっている。19世紀末、20世紀初頭の人たちは、もっと直接感じていました。物理主義はニヒリズムに行き着くと。
 科学技術的な世界観を表すものとして、物理主義、フィジカリズムというと並んで、唯物論、マテリアリズムという考え方もあります。これはちょっとニュアンスが違うんですけれども、近代の常識的な世界観を構成するものとして結構重なっています。唯物論は古代ギリシアからあったのですが、ここにプラトンを持ってくると、プラトンは唯物論ではない。プラトンイデアリズム、観念論です。真逆なんですよ。プラトンにとって魂の永遠性は自明のことです。しかしこの真逆な思想が、結局のところ、物理主義的で唯物論的であるはずの現代科学技術が予測する未来イメージであるマインド・アップローディングの中に、あれっと思っているうちに蘇っているんだよ、真逆の思想が。
 現代の科学、特に脳科学には、物理主義や唯物論に距離を取るアプローチもあります。近代科学というのは客観化できる対象だけを問題にするのですが、現代では意識とか心とか、クオリアとか、主観的な経験をどう説明するかということにも踏み込もうとしています。情報テクノロジーや脳科学の進歩によって、科学が今まで扱えなかった主観的経験までもが科学的に解明されつつある、みたいなことが科学雑誌などに書いてあります。昔は意識や心の問題は人文学や芸術、宗教の問題だったのに、今や科学はそこまで踏み込んだみたいな、いい加減なことが書いてあるわけですね。テレビの科学番組もそうだけど。いい加減というか、これ自体が一つの物語なんです。
 マインド・アップローディングも物語です。自分の心が情報としてクラウドにアップロードされて、それがどこかAIを搭載したロボットの中に保存される。するとそこに僕の心があるのだから、それが僕だと。だとすると、今ここにいるこの僕はどうなるの? ということ。室井さんがよく言っていたんですね。精神の転送をして自分がコピーされたら、ではコピー元のこの自分はどうなるの?僕が向こうに移るのだったら、こっちの僕は死なないとおかしいじゃないか、と。それとも自分は二つあっていいのか。いや、もしも自分の心が情報だったら二つどころじゃなく無限にコピーできるのだから、10でも20でも1万でもいいんですよ。それが全部「私」なんです。そんなことを想像できますかということですね。
 こういう問題がどんどん出てくるでしょう。物理主義的な考え方のままで意識やクオリアや心の問題に踏み込むと、解決不能にみえる問題がかならず出てくる。「ハードプロブレム」と言ったりします。これはたんに「難しい問題」と言ってるのではなくて一種の用語なんですよ。でも僕にとっては心や意識の存在はハードでもプロブレムでもないです。それらの存在は事実であり、リアルだからです。しかし物理主義的な前提に立つ人と話すときは、相手の言葉で話すこともあります。そうしないと会話が成立しないからです。これは言ってみれば、英語しかできない人と喋るときに、しょうがないから英語で喋ってあげるのと似ています。どっちかがやってあげなければいけない。ここには非対称性があります。マイクロソフトのファイル形式は他からも読めるけど、逆方向はできない。英語もマイクロソフトも支配的だからです。
 多和田葉子さんという作家がある本の中で、言葉というものは穴だらけだというんですよ。こんな穴あきチーズでどうして考えたり書いたりできるのか、と。でも穴だらけであることがわかるのは、多和田さんのように日本語とドイツ語ができて、それで、ある言葉から別の言葉へ行ったり来たりする経験があるからです。ひとつの言語の中だけに住んでいる人にとっては、言葉は隅々まで世界を描写しているかのように感じられるんです。言えないことはない、みたいなね。ポリリンガルでなくてもいいけど、世界を描写する複数の言語があることを知るのは必要です。それが教養ということだと思います。
 物理主義、科学主義を信奉する人たちはこれが唯一の究極的世界観だと思っているので、その言語では描写できない「穴」があることが見えません。ちょうど英語しか知らない人と同じです。英語や科学主義は支配的なので、他の言語を話す人もそれに合わせてくれます。だからよけいに自分自身の「穴」が見えない。どんなことでも翻訳してもらえば理解できると思っているからです。科学者でもたんなる専門家じゃなく、教養のある人も少なくありません。逆に科学者じゃなくても科学的基準だけを盲信している人も多い。そういう人は自分たちの言語に翻訳できないことを言われると、客観的証拠、エビデンスを見せろと言います。そんな誘惑に安易に乗っちゃだめですよ(笑)。証拠を見せて説明してくださいというのは、翻訳してくださいと言っているんです。翻訳してあげてもいいけど、翻訳では分からないということも認めさせましょう。
 さて時間もなくなってきたので、最後にどうしてマインド・アップローディングというような近未来的なテーマが、プラトンと何の関係あるのかをお話したいと思います。プラトンね、大体紀元前427年から347年くらいに生きた人です。ギリシャ哲学のイメージをどれくらいお持ちか分からないですが、これはとても有名なラファエロの《アテナイの学堂》という絵ですね。その真ん中を向こうから歩いてくる二人のうち左がプラトンで、右がアリストテレスです。周りにはギリシアだけではなくて、古代中世の有名な哲学者たちがいる。現実にはこんな状況はあるわけないんですけれどね。二人は歩きながら議論している。こういうのを「ペリパトス」というんですよ。ペリパトスというのはギリシャ語で「道に沿って」というような意味です。アリストテレスは歩きながら講義していたと言われるので、よくペリパトス派、逍遥学派なんて呼ばれる。逍遥とは散歩することね。京大教養部の前身である旧制三高の寮歌で「紅萌ゆる丘の花」、「逍遥の歌」っていうのがありますね。あの逍遥です。
 この中心の二人を見ると、プラトンの方が年上だから老人に描かれていますけれども、この顔はラファエロにとっての先輩、レオナルドですね。手で上を指しています。天上、イデアの存在する場所ですね。それに対して右のアリストテレスは反対に下というか、ここというようなジェスチャーをしています。「違いますよ、先生。イデアはこの現実の経験の中にあるのですよ」と言っているようです。そして二人とも本を持ってますよね。そのタイトルが読めます。プラトンの持っている本には「TIMEO」と書いてある。アリストテレスの方はちょっと指で隠れて全部見えないんですけど「ETIC..」とあるから、これは明らかに「ETICA」ですよね。イタリアルネサンスの頃、このギリシアの二大哲学者といえばそれぞれ代表作はこれでしょうという本のタイトルです。アリストテレスが持っているのは『ニコマコス倫理学』という本です。それからプラトンのは『ティマイオス』という本です。
 これもおかしいよね、古代ギリシアの著作なのにローマ字で書いてあるし、しかもイタリア語やん(笑)。でも昔の絵は、そういうものなんですよね。同時代の人に理解してもらうのが大切であって、時代考証的に正しい必要はないんですよ。歌舞伎と一緒ですよ。菅原道真が江戸時代みたいな着物着てるわけないじゃないですか(笑)。でも、そういうことは気にしないというお約束なんですね。
 プラトンは先生がいて、それがこの人ソクラテス。ソクラテスは本を書かなかったんです。ではどうして我々はソクラテスについて知っているかというと、プラトンが書いた本に出てくるからです。プラトンの著作というのは主に対話形式で、登場人物が何人か出てきて、いろんなテーマについて議論するんです。時には宴会をしながら。その議論の中で、ソクラテスも登場するという形式です。お芝居みたいな感じですね。哲学のおおもとの所に対話、ダイアローグがあるというのはとても大切なことです。現代、レポートでも学位論文でも基本的にはモノローグで書かなければいけません。「AはBである」「私はXと主張する」といった形式です。プラトンの対話篇について論文を書く時も、論文はモノローグです。これは科学研究、学問研究の基本です。もし対話で書いたら、学術論文ではなく文学作品とみなされます。
 対話だと、登場人物の誰が著者の考えを代表しているのかがわからない。でもプラトンの場合は大丈夫なんですね。ソクラテスが出てくるからね。この先生が言っているのがプラトンの思想だろうなと推測できるんです。プラトンと言えば誰でも「イデア論」と習います。けれども、そもそもイデアとは何かということがよく分からない。ひとつにはイデアという言葉がちょっとトリッキーで、これはローマ字で書くと英語のアイデアと同じ綴りなんですね。だから、頭の中に思い浮かべる着想のような意味かと思ったら、全く違うんですね。真逆と言っていいぐらい違う。アイデアというのはこの頭の中に思い浮かべる考えでしょう? それこそ、ローカルの方にある存在でしょう。しかしプラトンのイデアというのはローカルじゃない、言ってみればクラウドにあるんですよ。
 いわば、もうアップロードされているんです。それがイデアなんですよ。だから英語でも、これをアイデアと訳すと誤解されるので、現代のプラトン翻訳では「フォーム」と訳します。形、形式ということです。形ってどういうものか考えてみると、ものの形というのはものとは違うのです。つまり中身がなくなっても、形は残るということでね。たとえば立方体は形ですが、実際には木でできているか、石でできているか、粘土で出てきているか、いろんな場合があります。そして何でできていたとしても、いつかは壊れたり腐ったり風化して無くなってしまします。けれども立方体という「形」そのものは無くなりません。物質ではないから、この世界における時間の影響を受けないからです。この「形」がイデアなのです。
 アリストテレスもイデアの存在は認めますが、彼はイデアはローカルに存在している事物と不可分な形で存在すると考えます。けれどもプラトンは、クラウドにあると考えるんです。いや、「クラウド」とは言ってないよ(笑)。現代の僕らにとってはクラウドみたいなところにあるという意味ね。これがプラトンのイデア論。イデアの世界というのは、いわばマインド・アップローディングが完了した世界ですね。ただ、現代のマインド・アップローディングと違うのは、プラトン哲学においては、私たちの魂はもともとイデア界にいたんですよね。つまりクラウドに。それが何の因果か降りてきたんですよ。降りて来て物質である肉体の中に入ったわけ。すると、肉体化した状態では感覚器官を通じて、見たり触ったり聞いたりしてしか外界を知ることができないので、この世界のありのままの姿を見ることができなくなっちゃうんです。これが生きている人間の条件です。
 ところが魂はもともとクラウドにいたでしょう。だから、こういう不自由な肉体の中に入っても、ちょっと昔のことを覚えているんですよ。ほとんど忘れているけど、あるきっかけでイデア界のこと、真の実在の世界のことを思い出すことがある。それを思い出させてくれるのが、プラトンの場合は幾何学です。ユークリッドの幾何学ですね。幾何学は形だけを扱うから、イデアつまり形の世界のことを思い出すんです。これは、なんとなくわかりますよね。幾何学というのは形の学問だから、三平方の定理とか証明するとき、その三角形がどんな大きさだとか、何色か、なにで出来ているのかとか関係ないからね。形だけに集中して、我々は幾何学を思考することができる、というか、そういうことを訓練するのが幾何学です。すると、魂がかつて住んでいたイデアの世界をちょっとだけ思い出すということですね。
 この世界とイデア界の関係をわかってもらうために、プラトンはいろいろなたとえを使うんです。これは悪名高い?、というかよくわからんという評判がある「線分の比喩」というやつです。この世界は現象界で、このA1A2というのが現象界ですね。A1とA2の線分の比があって、その比がイデア界、形だけの世界におけるB1B2の比に対応していて、つまりA1:A2=B1:B2になって、最終的にはそれが現象界とイデア界の比にもなっている、みたいなことです。何が言いたいのか、分かるようでよくわかりません。そもそも比喩って難しいことをわかりやすくしてくれるレトリックじゃないですか。この「線分の比喩」、かえって難しいです。
 もう1つ有名なのが「洞窟の比喩」。こちらはわかりやすくて、いろんなところで引用されたりしてきました。私たち生きている人間は、洞窟の中に繋がれた囚人なんです。後ろ手に縛られて振り向くことができず、前の洞窟の壁しか見ることができない。そこにいろんな事物の影が映るんですが、その影を私たちは事物だと信じている。本当はただの影なのに。この影が、私たちがこの世で感覚を通じて知覚する世界なんです。振り向くことができないから、本物(イデア)は見ることができない。けれども肉体という条件がなくなって魂だけになったら、イデアを直接知ることができます。それはこの比喩で言えば、洞窟の外に出るということです。つまりそれは死ぬということですが、プラトンにとって死は終わりではなくて、魂の解放なんです。だから幾何学を勉強して、哲学するというのはいわば死をちょっとだけ先取りするというか、死の練習をする、みたいな意味があります。
 これはポリテイア、『国家』と訳されるプラトンの主要著作の中に出てきます。対話篇の中では、結構長い作品です。この中にはいろいろ有名な議論があって、美学や芸術学の授業ではプラトンの芸術模倣説とか詩人追放論とか習います。芸術模倣説というのは、芸術は二重の模倣、模倣の模倣だという説です。イデアが実在でしょう。それに対してこの世で私たちが経験する事物はその影なんです。いわばイデアの劣化コピーです。それで、画家や詩人がしているのは何かというと、その劣化コピーをさらに模倣してることになるわけ。影のまた影。これだけ聞くとプラトン哲学における芸術の評価は低いように聞こえます。でもね、よく考えたらプラトン、おまえ自身一種の詩人やないかということもある。自分で自分を追放してる?(笑) プラトンって、もともとは政治家志望だったんですが、現実の政界があまりに腐りきっていたので挫折しました。あと、レスリングの選手だったらしいですよ。体育会系で政治家志望。現代の「哲学者」イメージとだいぶ違うでしょう。哲学者になったのは、ソクラテスのせいです。というか、ソクラテスの死刑という事件がプラトンの人生を変えたわけです。
 ソクラテスはなぜ死刑になったのか。その当時、知識とは役に立つものしか価値がないって多くの人が思っていた。現代と一緒ですね。ただ現代の場合は、役に立つという知識のイメージは科学やテクノロジー、目的を合理的に達成する手続的知識です。古代ギリシアでは科学よりも弁論術のような言葉の技術です。それがなぜ役に立つかというと、法廷や選挙で勝てるからです。裁判と政治ですね。それが権力とお金に繋がる。裁判は弁論の戦いですから、現代でもそうですが、一見誰が見ても100%有罪だろうって思える被告を弁護して無罪にしたら、弁護士としてめちゃくちゃ有名になれるでしょう。だからそういう弁論能力が重んじられて、レトリックとか弁論術をお金をとって教える専門家がいたの。「ソフィスト」というんですけれども、いわば役に立つ知識を切り売りする人ですね。そういう中でソクラテスは、役に立つ知識なんてただのゲームじゃないかと言い、それに対して我々は真理を求める、要するに知ることそのものを愛すると言い出した。
 それが「哲学」という概念の語源です。哲学、フィロソフィーというのは、ソフィア(知)を愛する(フィロ)という意味です。ギリシア語起源のこういう言葉はいくつかあって、たとえば「フィルハーモニー」はハーモニーを愛するということです。
 もう時間がなくなってきましたが、こうしたプラトン主義、つまり魂が肉体と感覚世界を離れてイデアの世界に行き永遠の生を得るという、この種のイマジネーションが、西洋思想の根底にずっとあって、ローマ帝国がキリスト教化した後も、キリスト教的世界観の中にも形を変えて受け継がれることになります。その場合はイデア界の代わりに神の国で永遠の生を得るということです。こういった、プラトン哲学/キリスト教の根底を流れる、2000年以上にわたる形而上学が、現代ではさらに形を変えて、科学やテクノロジーの中に入り込んでいる。表面的には、科学的世界観は唯物論で合理主義だから、プラトン哲学とか宗教とかとは関係ないと思われていますが、実は関係なくないんですよ。プラトンはまだ死でないのですよ。それが、マインド・アップローディングをめぐる想像力の中にも現れていると思います。
 西洋文化圏に比べて、日本語の世界ではシンギュラリティとかマインド・アップローディングに関しては、わりと冷淡だと思います。本気にしてないというか。マスメディアやネットでは騒いでいますけれども、それは番組や本が売れたりしてビジネスにはなるので騒ぎますけども、多くの人々は本気で騒いでいないですね。これはなぜかというと、やはりベースになっている世界観、死生観が違うんですね。そもそも永遠の生が喜ばしいなんて思っている人が少ないのではないでしょうか。もちろん死ぬのが平気ではないし今死ぬのは嫌でしょう。健康で長生きはしたいと思うかもしれないが、では永遠の生を望むのか。皆さんはどうでしょうね。僕は永遠の生なんて興味ありません。どちらかというと、生まれ変わり死に変わり、転生という方にリアリティを感じます。その辺は、文明の基本構造の違いが出てきて面白いと思うんですけれども。
 90年代にクローン技術が話題になった時、日本でも海外ニュースとして話題にはなりましたけども、一般の人たちはみんな「へーすごいね」みたいな程度でしたね。ところが北米圏の大金持ちは、お金をいくらでも出すから自分のクローンを作ってくれ、みたいに本気で受け取った人がいたらしい。クローンが永遠の生を手に入れる方法みたいに誤解したんです。いったい何考えてるんでしょうね。自分のクローンを作ったって、それは別の個体であって自分じゃないじゃないですか。でもその場合も、この私という存在は要するに遺伝情報だ、だから同じ情報からできている生き物は私なんだ、という連想があったのかもしれません。
 同じ遺伝子を持っているものが私だったら、一卵性双生児の兄弟姉妹だって私のはずじゃないですか。ちなみに僕の母は一卵性双生児だったんですけれども、子供のとき朝起きて妹に「どんな夢見た?」と聞いて「こんな夢見た」と答えたら「私も見た!」と。つまり二人で同じ夢を見たというんです。そういうことが何度かあったから、もしかしたら相手が言ったことに影響されて自分も同じ夢を見たような気がしているだけじゃないかと疑って、お互いに言い合う前に紙に夢の内容を書いて、「せーの」で見せあったんだって。そしたら、同じだったと(笑)。まぁ、そういう不思議なことはあってもいいんじゃないですか。こういう現象を合理的に説明するために、擬似科学的な理論を捏造する必要はないと思います。マインド・アップローディングも、ちょっと面白いが怪しげなトピックという程度に考えておけばいいのではないでしょうか。(前半部終了)