日時:2025年4月19日(土曜日) 午後2時〜4時
会場:京都市立芸術大学 C棟3階「講義室7」
参加者:24名
デジタル・テクノロジーが可能にしている仮想空間に没入する経験の意味、それが現実とどう違うのか、そもそも仮想世界と現実世界とを決定的に区別することはできるのだろうか──そうした問いは現代特有のものだと思われるかもしれないが、実はそうではない。人類は文明の始まりから、仮想世界と現実との関係という問いに直面してきたのである。しかも二千年以上前の古代人の方が、この問題を私たちよりもずっと深く考えていたようなのである。
この講義では老子・荘子のテキストを読みながら、メタバース、VR、さらにはネット世界の経験一般についてどのように考えることができるのか、人生をより良く生きるために、仮想的な世界経験とどう付き合っていけばいいのかを考えたいと思う。(吉岡 洋)
司会(安藤) 時間になりましたので、2025年度、今年度も続けることになりました。皆さん3年目になりますけれども、今年度もどうぞよろしくお願いします。
今日は第2回対話ということで。前回3月にオンラインで全体の紹介をしました。ホームページがありますので、またご覧ください。12回ありますけど10回がライブという形で。過去の哲学者とか思想家の方を今回のゲストとしてお呼びして…お呼びするのか、参考にするのかわかりませんけれども、吉岡さんとの対談という形になるかと思います。
最初は今日は老子と荘子を読むという形ですが、あとカントとかプラトンとか毎回違った思想家がここに訪れて、現代の問題について話し合うというか、そういう形の対談です。また、いつものように後半ですね、また質問タイムという形で質問あるいは意見を述べていただく時間がありますので、また是非いろいろご意見、ご感想を言っていただければと思います。はい、ではよろしいでしょうか。
吉岡 皆さん、こんにちは。「土曜の放課後」でこの教室を使うのは初めてです。昨年度、京都市立芸術大学で行なう時は畳のある空間をお借りしていました。先日、IAMASの卒業生で香港出身のジャムセン・ローというアーティストが日本にやってきて、どこかでレクチャーしたいというので、加須屋明子さんにお願いして、ここを使わせてもらいました。畳の場所が空いてなかったね。それで初めてこの部屋を見た時、広いし明るくていいなと思って、今年度のはここを拠点、場所として使わせてもらうことになりました。ありがとうございます。畳の部屋と違って、わりと視線が自分に集中する感じがしますね。
この間《しゃべらない対談》っていう不思議なパフォーマンスに誘われたんです。京都芸術大学の、山の中腹にある野外能舞台で、垣尾優さんというダンサーの人と向き合って、1時間何もしゃべらないで向き合って座るというパフォーマンスです。何でそんなことするの?と聞く人もいたけど、僕には「とりあえずワケノワカラナイもの」に対する偏愛があるからです。人前で話すということのはこれまでさんざんやってきたわけですけど、話さないで座っているというのは全く違う経験でした。ダンサーの人は知ってると思うけど、観ている人の視線が気になるんですね。観客と普通に目が合うと照れてしまうんです。客席と舞台との間に心理的な壁を作らないといけない。見てる人と目があっても、その人をまるで書割の絵みたいに感じないと、パフォーマンスの空間が壊れてしまうことを実感しました。面白かったですね。
それとは違って、普通のレクチャーとか学校の授業とかは、むしろ聴いている人と目が合った方がいいんですね。人前で何かをしているという点では似てるんだけども正反対です。楽しかったです。ダンサーと向き合って、ある意味対決するみたいな。身体を動かし始めたら僕はダンスなんてできないので勝負になりませんが、じっと向き合っているだけなので。動かないといっても、ちょっとは動くんですね。足の向きや見る方向を変えたり。ある瞬間、僕の方から先に立ち上がりました。実はそれは、寒かったので上着のポケットに入れたマフラーを首に巻きたかったからなんですが、後から聞いたら、吉岡さんが立ち上がった時はドキドキして、どうしようかと思いましたって垣尾さんが言うので、なんか「勝った」みたいな気持ちになりました(笑)。
さて今年度の「土曜の放課後2」ですが、前回の第1回はオンラインで全10回のテーマの説明をしました。今日は第2回ですがテーマとしては一つ目の「老荘とメタバース」です。対話といっても僕一人でお話しするのですが、考え方としては最初に安藤さんが言われたように、過去の思想家を呼び出して現代的なテーマを話し合ってみるということです。つまり今回は、老子や荘子を呼び出して対話するというんですけど、そんなの無理ですよね(笑)。
道教について
僕はカントは長い付き合いなので、なんとなく憑依させることができるような気がするんだけど、老荘は難しいです。カントは250年前の人だけど、老子は2500年前だし、そもそも個人として存在したかどうかもわからない人ですからね。ただ、呼び出して対話するのは困難なのですが、手がかりがないこともないんです。僕は子どもの頃学校や子供たちの世界に馴染めなくて、わりと家に引きこもってたんですけれども、祖父母の家の近くに引っ越してからは祖父、おじいちゃんの部屋に入り浸っていました。祖父は明治34年生まれで、大正時代に東京で文学や演劇に耽溺した青年時代を送っていました。作家になるのは諦めて逓信省に就職して結婚したのですが、その後も読書好きで昔の本をたくさん持っていました。近代文学が多かったけど、その中に中国古典の解説書もあったのですね。
その中に猪狩史山という明治の漢学者が書いた『老荘漫筆』という小さな本があって、字が読めるようになった僕は「老荘」って何?と訊いたんです。すると老子や荘子の有名な言葉をいくつか教えてくれました。今まで聞いたことのないような言葉で、もちろん小学校の国語の本にも書いていなかったですね。祖父の家は曹洞宗で彼は禅を尊重していたので、今から思うと祖父から受けた老荘思想の説明は非常に「禅」的な解釈でしたが、非常に影響を受けました。論語や孟子も教えてくれましたが、一番強い印象を受けたのは老荘、道教の思想ですね。
道教の影響は近代日本の中には表立って見えないですが、中国や台湾、朝鮮半島には道教の寺院というのがあります。日本にも本当は入ってるんですよ。道教は「教」っていう言葉が付いていますが、キリスト教とかイスラム教と同じような意味で宗教ではないんですね。日本の神道と同じで、これは特定の経典がありません。今日我々が「宗教」と思っている文化というのは、もともと存在していた様々な信仰が、何千年前かな、たぶん3000年ぐらい前に、文字言語の文化が広がった時に、文字という新しいメディアとぶつかって生まれたものだと言うことができると思うんです。しかし道教とか、日本に元からあった自然崇拝のようなものは、特定の経典に結びついて体系化されることなく伝わってきた。
しかし書かれたものがなかったわけではなく、道教の場合はこの老子とか荘子とか、いわゆる紀元前300年頃のテキストなんですね。日本には道教寺院ってあんまりないと言いましたけれども、本当はあったんでしょうね。修学院離宮の近くに赤山禅院というのがありますよね。あそこの御本尊は本尊は泰山府君といって、道教の神様なんですよね。そういうふうに入り込んでいるんだけれども、その後、仏教が入ってきたから上書きされちゃって目立たない。けれども道教的なものは、我々の自然観とか物の考え方の中には潜んでいると思います。それを「道教」という名前で、ほとんどの人は意識しないと思いますが。
今回は老荘思想を手がかりとして、デジタルテクノロジーが可能にする世界観との関係を探ってみたいと思います。別に「メタバース」だけが問題じゃなくて、いわゆるバーチャルな体験、仮想的な世界の経験について考えてみようということなんです。
夢現(ゆめうつつ)
現実と区別された仮想の世界という考えは、何も現代に限られる問題ではなくて、ほとんど文明の始まりからあると言ってもいい。私たちの祖先は古くから、仮想的世界を想像してきました。すると仮想世界と現実との関係が問題になります。「夢現(ゆめうつつ)」と言いますけれども、現(うつつ)というのは現実で、夢(ゆめ)というのは現実ではない世界のことですね。だから私たちが今「バーチャルリアリティ」として考えているものは、デジタルテクノロジー以前の人たちは「夢」という言葉で理解していた。眠っている時に見る夢だけではなく、何らかの仕方で経験される超現実的な世界というふうに考えていたわけです。そして夢と現実というのは全く別々に存在しているわけではなくて、相互に影響を与え合っています。
夢によって現実が影響を受けることはよくある。そこから、夢を現実のいろんな問題解決の参考にするとか、夢で占ったりします。「正夢」みたいに夢が現実化すると考えたり、見た夢を手がかりとして現実の意味を探るといったこともあります。日本の古典文学を勉強すると教わりますけれども、たとえば夢の中に自分の恋人が出てきたら、自分がその人のことを思っているから夢に見たんだというふうに現代人は理解するけれども、古代人は逆で、夢に現れるということは、その人が自分のことを思っているからだと解釈します。いいですよね、この考え方。そういう仕方で、夢の中に現実が入り込んでくるわけです。現実の中では表に現れないリアリティーが、夢の中では形をとって現れてくる。一般に昔の人の方が、現代人よりも夢に親しみを持っていたと思います。
邯鄲(かんたん)
夢についてのどんな話から始めようかなと思ったんですが、一番最初に思いついたのが、「邯鄲(かんたん)」というお話です。これは実際に中国に存在する都市の名前ですね。行ったことがありませんが、日本では古くから知られている中国の最も有名な地名の一つです。なぜ有名かというと、それは『邯鄲の枕』とか『邯鄲の夢』と呼ばれる一連の物語を通じて知られているからです。能の演目にもあります。能の『邯鄲』の場面もスライドに入れておきました。これが能の『邯鄲』です。面白い話です。能の『邯鄲』はオリジナルの物語とはちょっと違うんですけども、基本的なストーリーは同じです。三島由紀夫の『近代能楽集』の中にも『邯鄲』がありますね。元は唐代の作家が書いた『枕中記』という本、これはいろんな物語が集められたアンソロジーなんですが、その中に出てくるエピソードです。
盧生(ろせい)という若者がいて、これから自分の人生をどうしようか、出世もたい、お金儲けもしたいみたいな欲望、野心があるんだけれども、うまくいくだろうかと迷っている。しかし反面、仏教的な世界観にも影響を受けていて、いや、そんな野心に惑わされる人生よりも、僧侶となって真理を求めた方がいいんじゃないか、とも思う。そういうふうに思い悩んで旅をしていたんです。その途上でこの邯鄲の町を訪れて、そこで道士に出会う。道士というのは、道教の智恵を備えた知識人ですね。その人に枕をもらって、その枕で寝てごらんなさいと言われる。それでもらって帰って、台所で粟のおかゆを竈に仕掛けて、その前でその枕で居眠りをするのです。
そうすると夢の中では、自分が仕事につき、結婚し子供もできて、仕事上ではいろんな勢力争いとかもあって、危機一髪、もうこれで破滅するかみたいな波乱万丈の場面もあり、しかし最後には敵を制圧して、出世してゆく。国の王様にも気に入られて、非常に有力な側近になって、やがて孫もできて、大成功の人生なんです。最後に家族や周りの人たちに見守られながら死ぬというところまで夢に見るんです。死んでパッと目が覚めると、台所でさっき仕掛けた粟粥がまだ出来上がってもいない。つまり20分とか30分とかというような時間の間に一生の夢を見たわけです。その時に盧生は「人生というのは夢なんだ」と悟った。
人生の夢を見ただけなのにね。「人生は夢」とはよく言われるけど、この話では夢によって、人生そのものについて悟ってしまうということです。それで出世への野心を捨てて、故郷に帰ってつつましく暮らす、みたいな話なんですよ。面白いけど、つまらんなとも思います(笑)。そういう話なのですが、非常に有名で、いろんな文学や、芸能の作品の元ネタとして使われてきた話です。これに限らず、夢と現実の人生とを行き来するという話では、夢と現実では時間経過の速さが違います。バーチャルな世界での長い時間が現実では一瞬だったり、浦島太郎なんかはその逆ですけれども、バーチャル世界では数日だったのが、現実では何十年も経っていたりする。
夢たまご
もっと身近なところで落語の例についてお話ししたいのですが、これは僕が愛してやまない落語家の桂枝雀さん。もうずいぶん前に亡くなりましたけど、彼は古典落語に新しい解釈を加えて、斬新な演出でやるということで有名でした。と同時に新作落語も自分で作ってたんですね。枝雀さんが新作落語を作る時の元ネタは、結構古典的なものが多いんですよ。たとえばこの『夢たまご』という話、これどう考えても『邯鄲』が源なんです。どういう話かというと、「夢たまご」っていうものがあって、その卵を食べると夢が見られる。ちょっと麻薬みたいな感じですが、そんな卵はもちろんないんですよ(笑)。そういうのがあるという前提になっている。それをゆで卵にして売り歩いている行商の男がいる。それを語り手の男が聞きつけて、ちょうど夕方になって小腹が空いてきたけれども、今ご飯を食べてしまうと、晩にお酒飲む時に満腹だとおいしくない、ちょっとしたおやつ、「虫養い」にちょうどいいと思う。
ところでこの「虫養い」っていう言葉、もう使いませんよね。お腹の虫を養うという意味です。いっぱい食べるんじゃなくて、ちょっと食べる。「小腹が空く」というのも古い日本語ですね。日本語話者はみんなわかると思うんですが、英語に翻訳できない。つまり「小腹が空く」という経験は、日本語で考えない限り経験できないです。つまり日本語で考えている人以外、小腹は空かないんですね。とにかく、そういう時にはゆで卵くらいがちょうどいいので、語り手は夢たまご売りから買うわけです。そうすると夢を見る。この夢が、その「夢たまご売り」の男になっている夢なんですよ。これは、相当すごいひねりだなと思うんですね。今見た、自分がその男から卵を買ったその男に自分がなってるわけです。いわばバーチャル世界の中で夢たまご売りという「アバター」の中に自分が入っているという感じですね。夢たまご売りの体を通して世界を経験している。
そうして、さらに卵を売り歩いている。そしたら夕焼けが見えて、きれいな野原があって、ああ気持ちがいいなと思って、もう今日の仕事も終わりかと言って、家へ帰ろうとする。家というのはもちろんその夢たまご売りの家です。そしたらお帰りなさいって、綺麗な奥さんが出てきて、お酒とご飯が用意してあって、ああ、今日も一日よく働いたなぁと晩酌していると、かわいらしい男の子が出てきて、今日はお祭りなので、隣町のおばちゃん家に行って泊めてもらいますと言う。それで、その綺麗な奥さんと二人っきりになる。やがて寝る時間になって、奥さんが「私、先に休ませてもらいます」って蚊帳の中に入って、自分も入っていこうとするんだけどそこでそこでハッと気がついて、「夢たまご売りにとっては自分の女房やけど、俺にとっては人の嫁さんや。どうしよう」って一瞬悩むんです。でも「まぁ、夢の中やからええやろう」と言って布団に入ろうとした瞬間に頭をポカっと殴られる。ふっと向くとその夢たまご売りがいて、びっくりした瞬間に目が覚めるのです。
目が覚めてみたらまだ夕方で、近所ではまだ夢たまご売りが売り歩く口上が遠く聴こえている。そんな短い時間の間に、夢では日の暮れから夜寝る時までの時間を自分は経験したのか、と思うんですね。そこで語り手は「しかし面白い夢やったなぁ」とつぶやく。こういうところが、桂枝雀さんの品性が現れてると思うんです。欲に振り回されながらもどこか悟っているというか。普通の落語家だったら、こういうシチュエーションの時は男の視線でものを言うから、「ああ、もうちょっとやったのに惜しかったなあ」とか言って笑いを取ろうとするんですね。ところが枝雀さんの語り手は「しかし面白い夢だったな」と言うんですよ。そそして夢たまご売りの後ろ姿を見て、たとえ夢の中にせよ、俺が自分の女房とあんなとこまで行ってるのも知らないとは、なんか哀れなような思いがする、と言った瞬間、その夢たまご売りは売り声の後に「なんぼ夢の中でも、してええことと悪いことがあるぞ」って言って、これがオチなんです。つまり夢たまご売りは夢の内容を知ってるんです。そういう、現実と夢との交錯みたいな不思議な世界を構築してるんですね。
心の哲学/胡蝶の夢
さて現代の、コンピューターが可能にするバーチャルな世界について、それを哲学的にどう考えるべきかという哲学分野があります。「心の哲学」と呼ばれたり、もう少し脳科学とかコンピューターサイエンス寄りの場合には「意識の科学」なんて呼ばれたりします。デジタル技術が生活や社会に深く浸透していくにしたがって、この10年、20年の間にものすごく広がっています。ところで科学というのはこれまで、基本的には何らかの客観的対象について研究してきたわけですが、意識というのは主観的な経験ですよね。心理学はいわばその境界にある学問分野だと言えますが、心理学は科学か?という問いはずっと続いてきました。心理学がより客観科学的になればなるほど、意識などの主観的経験は捉えにくくなるからです。しかしデジタル技術の発達によって、科学が主観的経験に踏み込むことが可能なると考える人もいます。
そうした哲学者の中で最も有名な人にデイビッド・チャーマーズという人がいます。バーチャル・リアリティを哲学的にどう理解するかという問題を考えてきた人で、たとえばこんな本があります。この『リアリティ+』という本を見ると、「第1部 バーチャル世界に関する重要な問い」とあって、その一番最初に荘子が取り上げられてるんですね。有名な「胡蝶の夢」の話が出てきます。これはとても知られているので、おそらくほとんどの人は聞いたことがあると思うんですが、こういう夢ですね。荘子は紀元前300年頃の人とされているのですが、あるとき自分が蝶になった夢を見た。ひらひら飛び回って、ああ気持ちがいい、とても幸せだった。ところが突然目が覚めると、自分は荘子という人間だったと気がつく。
普通だったらここで終わって「俺チョウチョになった夢を見たよ」と思うだけかもしれませんが、荘子はそこで「しかし待てよ。もしかしたら今、人間だと思っているこの自分の経験は、蝶が見ている夢なんじゃないか」というふうに考える。そこから、人間の自分が蝶の夢を見ただけなのか、それともこの現実が実は蝶の見ている夢なのか、それを決定することはできないんじゃないか、と考えたというんです。バーチャルな経験の不思議さを語る時にこの例はわかりやすく、いろんなとこに使えそうなネタで、実際使われてきました。みんな大好きです。そしてキリがない。「蝶の夢を見ている自分が、蝶が見ている夢」だとそこで止まってますけども、その認識自体が誰かがみている夢かもしれず、いくらでも続けることができるわけです。こうした夢の世界っていうのは、コンピューターなしのバーチャル世界と考えていいでしょう。荘子とはいわば、コンピュータなしの、バーチャル世界の哲学なんです。
これも有名ですけども「マトリックス」という映画があって、この世界では本人の身体は何か特殊なブースの中で眠っているような状態なのに、脳の中に直接感覚信号が入力されることで、まるで生きて生活しているみたいな経験をしているということになっています。つまり私たちがリアルな世界で道を歩いているとか、映画を観ているとか、そういう経験が実は脳への直接入力によってバーチャル世界で経験されているかもいしれない、という設定の映画ですね。これは基本的に荘子の「胡蝶の夢」と同じです。面白いと思うと同時に、ちょっと不安にもなりますね。私たちがリアルだと思っているこの経験も、もしかしたら作り出されたもの、誰かに見せられているだけであって、本当の現実じゃないんじゃないか、とも考えられる。そうではないという証拠を示すことができないからです。
ナーラダの変身/杜子春
自分の経験してることが本当の現実なのか、錯覚に過ぎないのかどうか。これに関してチャーマーズは荘子以外の例を出していて、たとえば古代インドの「ナーラダの変身」という民話があります。賢人のナーラダがヴィシュヌ神に、私は錯覚を克服できるようになったと言ったんです。するとヴィシュヌ神はナーラダに、では錯覚の真の力を見せてやろうと約束した。朝目覚めてみると、男性のナーラダがスシラという女性になっていて、ナーラダとしての記憶を全部失っていた。スシラは王様と結婚し、8人の息子と多くの孫に恵まれたが、ある時、敵が攻めてきてのスシラの息子と孫が全部殺された。悲嘆に暮れているスシラ、王妃の前にヴィシュヌ神が現れて「なにを悲しんでいるのか。これが錯覚なんだよ」と。
強烈ですよね。「胡蝶の夢」はなんとなくファンタジーぽくて受け入れやすいけど、このナーラダの話はひどいですよね。でも、本来はこんな感じなのですよ。僕の子供の頃には学校の国語教科書に載っていた芥川龍之介の『杜子春』ってあるじゃないですか。仙人になるために何もしゃべらないって約束をするが、最後には地獄で母親が畜生道に落ちて苦しめられるのを見て思わず「お母さん!」と言ってしまう、というヒューマニズム的な話になっているけれども、あれは芥川龍之介がうまいこと作ったんです。実は元ネタがあるんですよ。
『杜子春』の原話によると、仙人が何か仙薬を作るのにずっと沈黙を守る人間が必要となる。それで杜子春にそれを約束させる。杜子春は沈黙を守るんだけども「なんで黙っている」と言って神様に殺されちゃうんですね。それで転生して女になるんですよ。でも話さないという誓いは受け継がれて、唖の女性として生まれるんです。その代わり、絶世の美女として生まれるんです。それで大金持ちの商人がそれを見初めて自分の妻にする。でも綺麗なのはいいけれども、喋らないから不満になるんですね。赤ちゃんも生まれたのですが、ある時お前はなぜ喋らないのかと苛立って、夫は怒りにまかせて目の前で赤ん坊を殺してしまうんです。それを見た杜子春は「あっ」と思わず言ってしまって、そこで目が覚める。すると、沈黙を約束させた仙人が薬を作っていて、ああ、もうちょっとだったのに、と。けっこうとんでもない話なんですね。
ちょっと話が脇道に逸れましたが、チャーマーズは古代の中国やインドの物語の例を出しながら、自分が今経験しているこの現実が実は夢、つまりバーチャル世界ではないと確実に断言することはできるのか? という問いを立てるんですが、皆さんならどう答えますか? 僕は、こういう問いにマトモに答えることに抵抗感を感じるんです。こういう問いを前にすると、その問い自体がいかにも西洋哲学そのものだなと思うんですね。西洋哲学というのはプラトン以来、この問いにとりつかれているんですよ。つまり、仮想と現実、現れと本体、単なる現象と実在、物質と精神。プラトンの場合だったら、この現世とイデア界ですね。つまり、移り変わるはかない肉体と、魂の永遠の故郷。この種の対立がずっと続いている。これは現代でも続いていて、現代哲学においても形を変えて現れてきていると思います。
どうして私たちは夢と現実とを区別したいのか?
しかし、この問いが全てじゃないと僕は思っているんですね。たしかに、いわばこの問いをタネにしていろんな哲学ゲームを作り出すことができるでしょうが、少し身を引いてというか、落ち着いて考えてみたい。落ち着いてというのはどういうことかというと、今自分が経験していることが夢ではないとどうやってわかるのか、という問いよりも、僕にとって気になるのは、そもそもどうして私たちは夢と現実とを区別したいなんて思ってしまうのかということです。この方がより重要な問いなのではないかなと考えているんです。
そのことを、現代の脳科学を参考にしながら説明してみたいと思います。ひとつ本を紹介すると、渡辺正峰『脳の意識 機械の意識―脳神経科学の挑戦』(中公新書、2017年)。もう一度伝統的な問題を整理しておくと、今ここに存在しているという意識の確実性が、夢と現実とを区別する手がかりとされてきました。その典型がデカルトの「私は考える、だから私は存在する」です。外界はもしかしたら幻かもしれない。自分が経験していると思っているこの世界すら、どこかの悪い神様(デーモン)さっきのインド神話に出てくるビシュヌ神みたいなものが見させてる夢かもしれない。私たちは騙されているだけかもしれない。この疑いに対してデカルトは『方法序説』の中で、たとえそうだとしても、その騙されている私が存在することは疑い得ないんだと言うんですね。
面白いけれども、そこまで言ってリアリティを確保したいのか、とも思うんですよ。しかしこれが意識の科学、脳科学の中で意識の有り方みたいなことを考える、強いモチベーションになっているんですね。だから大抵の人はデカルトから始める。チャーマーズの中にも出てくるんですけれども、意識は何によって可能かなんてこと以前に、いったい何を「意識」とみるのかということが、まだ合意できてないでしょって言うんですよ。この著者である渡辺さんによれば、チャーマーズの意識の定義はなかなか筋が通っていると。チャーマーズによると、意識の経験には客観サイドと主観サイドがあって、客観サイドにおいてはいろいろ言えるけど、主観サイドで考えると、そこで何らかの情報処理が行われていれば、それは意識を持つと見なしてよいというのです。
これは極端な考え方ですよね。もしそうだったら、サーモスタットでも意識を持つことになります。サーモスタットと言っても今の若い人はピンとこないでしょうが、昔は温度調節をするのにこういった物理的メカニズムを使っていたんです。バイメタルといって種類の違う金属を貼り合わせて、それが熱をもった時に膨張率が違うから、どちらかに曲がるんですね。それをスイッチに利用すると、たとえば電気炬燵の熱が上がりすぎるとスイッチが切れて、下がり過ぎるとスイッチが入る。僕が子供のときにはこれで制御されていましたから、熱すぎたりまた冷えたりを繰り返してるんです。今はマイコンで制御されているから非常に安定してますけど、いずれにしてもこういう温度調節機能というのは一種の情報処理装置じゃないですか。だとするとサーモスタットも意識を持つというのか。チャーマーズは、主観サイドではそれも意識を持つと言っていいんです。
いくらなんでもこんなものが意識を持つわけがないと言われたら、「お前、サーモスタットじゃないのになんで分かる?」と反論できるのです。だって私たちも自分が意識を持つことは、内部からしか確認できないのだから、同じなんです。これが主観サイドということですね。AIが意識を持つとか持たないとかいう議論がありますが、それはAIになってみないと分からんということです。ある意味、非常に徹底した立場なんです。
感覚入力/夢・現実の連続的変化/覚醒
脳科学的な観点から何がクリアになるかというと、ある経験が夢か現実かを決定的に区別する必要はないということなんです。どちらも神経活動によって生成されるものだからです。ただ現実の意識状態というのは、身体が覚醒状態にあるので絶えずいろんな感覚入力があり、それが脳の作り出す経験を常に補正している。それに対して夢の経験は、神経活動によって生成されている点は同じだけれども、覚醒時に比べて感覚入力が少ないので、神経活動が補正されることなくいろんなものを作り出す。それが夢だということです。つまり、どちらも神経活動によって生成されるバーチャルリアリティなのだが、外界の物理的刺激による補正の度合いが違うということですね。だから夜寝て見る夢じゃなくても、感覚入力が低下した状態の意識は、同じようなものを経験する。たとえば老化して感覚刺激に対して反応が弱くなったり、病院でICUみたいな環境で寝かされるだけでも経験は変わります。
極端な例を挙げれば、1960年代に話題になったアイソレーションタンクのようなものに入って視覚刺激を遮断すると、普段とは全く異なった経験をすることも知られています。有名なのはティモシー・リアリーという心理学者で、自分でLSDなどの薬物を服用してタンクに入るような実験をやっていました。その後、薬物からコンピュータカルチャーに移行しましたが、1980年台のサイバーパンク文化、つまり人間の精神が情報ネットワークに接続されて変容を遂げるといった想像力の源流は、1960年代のサイケデリック文化です。2000年以降のグローバルに拡大したネット文化、「メタバース」もそうした歴史的な流れの中に位置づけることができると思います。
話が少し逸れましたが、とにかく感覚入力の量によって、現実と夢とは連続的に変化している、バーチャルとリアルとは対立しているのではなく、程度の差であるということです。すべての経験が神経活動によって作り出される、広い意味でバーチャルなものですから、これが究極の現実経験だ、などというようなものはない。それが最近の脳科学、神経科学を参照することで得られる見方です。そしてこれは、普遍的なものの見方なのではないかと思います。逆に言うと、決定的な意味で覚醒する、真実に目覚める瞬間があるのだ、というようなのは、非常に特殊な考え方なのではないかな。たしかに私たちは、夢から醒める、覚醒するという経験はするけれども、それは「これまで私は夢を見ていたんだ」と感じることで、とりあえずその前と後とが区別されるという経験にすぎないのではないか。そのことと、決定的な覚醒というものがあるということは違うと思います。
たとえば「目からウロコ」という言い方がありますね。これは新約聖書の「使徒言行録(使徒の働き)」9章の中でサウロという人が、この人は最初はイエスを迫害していたのですが、ある時突然空中から光とともに「サウロよ、なぜ私を迫害するのか」というイエスの声が聞こえて、ショックで倒れて目が見えなくなってしまうのです。イエスがそのことを知って、弟子の一人であるアナニアにサウロのところに行かせて、手を彼の上に置くとサウロの目から「ウロコのようなもの」が落ちて、再び目が見えるようになったというのです。ウロコじゃなくてウロコ「のようなもの」というのが気になりますが、とにかくそれが、サウロがイエスの真理に目覚める瞬間だということです。こういうのが、究極的・絶対的な覚醒の一例だと思います。この「目からウロコ」という表現、今の若い人たちもわりと気軽に使っていて、授業の後のコメントで「先生の話は目からウロコでした!」なんて書いてくる子がいますが、全然うれしくないです。先生が真理を教えてくれるから自分は考えなくてもいい、と言っているみたいだからです。
荘子『逍遥遊篇』
最後に、老荘思想といってもテキストにまったく触れたことがないという人もいるみたいなので、荘子の文章を少しだけ読んでその手触りを感じてみたいと思います。漢文の授業じゃないので詳しく解説はしませんが。僕にとって覚醒するというのは究極的な真理に到達するということではなくて、それまでは見えなかった景色が見えるようになる、展望を得るという意味なのですが、子供の頃から変わらずそうした展望を与えてくれる本の一つが、たとえば荘子の『逍遥遊篇』なのです。夢と現実、バーチャルとリアルとは、決定的に区別はできないけど、だからといってすべてが対等ではない。「これまで自分は夢を見ていたんだ」という覚醒の経験はたしかにあります。それがなければ勉強する意味もありませんが、今の世界は経験の相対主義が支配しているように思えます。それはともかく、荘子の内篇のいちばん最初のところを少し読んでみます。荘子の本は全部合わせると長いんですけど、古いテキストってだいたい、最初の方が勢いがあっていちばんいいんです。だんだんダレてくるというか、繰り返しが多かったり、誰かが後で書き加えたみたいなのがあんですよ。現代の本みたいにきちんと整理されていない。最初のところが一番よく読まれるんだけど、それは理由があって文章に力があって、イメージが鮮烈なんです。
北冥有魚,其名曰鯤。鯤之大,不知其幾千里也。化而為鳥,其名為鵬。鵬之背,不知其幾千里也;怒而飛,其翼若垂天之雲。是鳥也,海運則將徙於南冥。南冥者,天池也。〈スライド1〉

北の暗い海の上に「鯤(こん)」という巨大な魚がいて、それが何千里もあるような大きさなんだと。それが「鵬(ほう)」という鳥に変化して、そうすると翼が「垂天の雲のごとし」、天を覆ってしまうくらい大きな鳥に変化すると。海が動くときに、それが北冥から南冥に、つまり南の暗い海に移ろうと飛び立つ。かなり謎めいた文章ですが、古いテキストを読むときは、それは一体何の喩えなんだ?などとすぐに批評的なツッコミを入れてはダメなんです。とりあえず謎は謎のままに、世界そのものであるような魚と鳥の強烈なイメージを受け入れなければなりません。それが最初に提示されて、そこに蜩と鷽鳩とが対比される。蜩というのはひぐらしのことで、鷽鳩は小鳩らしいのですが、小さい彼らは、鵬をせせら笑って言うことには、
我決起而飛,槍榆枋而止,時則不至而控於地而已矣〈スライド2〉

僕たちは楡(にれ)の木や枋(まゆみ)の木に飛びつこうと思っても、それさえできずに途中で落ちたりするんだよ。なのにこの馬鹿でかい鳥は、いったい何の必要があって、九万里もの高さに行くんだろう、気がしれないねと笑ったというんです。ちょっと解釈すると、ここでひぐらしとか小鳩と言われてるのは、孔子の仲間なんです。荘子の思想的ライバルですね。人間の道徳や礼節とかそんなことにばっかりにかかずらわっているあいつらは、セミやハトみたいなもんだ、と言ってるんです。では鵬は何のために大空に飛翔するのか。例えば近所の原っぱにピクニックに行くんだったらお米と三食くらい持っていったら食料足りる。さらに遠くに行くんだったら、もっとたくさん用意しなきゃいけない。千里の旅に出る時は、三月かかって米を集めて用意しなきゃいけない。スケールが違えば必要とされるものも違うんだ。小さなスケールしか知らないひぐらしや小鳩に何がわかるか、ということです。
奚以知其然也?朝菌不知晦朔,蟪蛄不知春秋,此小年也。楚之南有冥靈者,以五百歲為春,五百歲為秋;上古有大椿者,以八千歲為春,八千歲為秋,此大年也。而彭祖乃今以久特聞,衆人匹之,不亦悲乎!〈スライド3〉

これも有名な箇所で、今度は時間スケールのことなんですね。朝菌というのは、朝から夕方まで生きるキノコ。朝から夕方までの命だから、夜や明け方をそもそも知らない。それから、夏蝉は夏だけの命だから春や秋を知らないし、これらを短い命、「小年」と言うんだと。一方楚の国の南方には冥靈という木があって、五百年の間が成長する春で、次の五百年が落葉の秋である。つまり千年生きる木だ。また太古には大椿という木があって、八千年が成長の春で、次の八千年が落葉の秋である。その次が面白いんだけれども、こんなことがあるのに、彭祖(ほうそ)程度が長寿で有名になってるって、どうなの? と。彭祖というのは800年生きたと言われる人で、孔子は尊敬している仙人なんですが、荘子は800年くらいで何騒いでるんだ、嘆かわしいと言うのです。
宋人資章甫而適諸越,越人斷髮文身,無所用之。堯治天下之民,平海內之政,往見四子藐姑射之山,汾水之陽,窅然喪其天下焉。〈スライド4〉

最後にこれはね、時間や空間のスケールじゃなく、価値のスケールなんです。宋の国の人がきれいな冠を携えて、これは高く売れるだろうと、越の国に売りに行った。越とは今のベトナムですね。行ってみたら、越の人たちはざんばら髪で、文身、つまり刺青をしてるんです。きれいな冠なんて持っていっても全然欲しがらない。だから何の価値もなかった。次はまた違う話で、堯という伝説上の王様のことです。古代中国において高徳の治世をしたことで有名な堯とか舜とかいう王の一人ですね。その王が天下の民を統治し、世界の政治を安定させてから、遥かなる姑射の山に神人を見る。神人とはもはや神のようになった仙人ですかね。それを見た王様は、都の郊外の汾水という川の北まで帰ってきたら、茫然自失して、自分が王であることすら忘れてしまった。というんです。圧倒的にすごい存在に接すると、それまで自分が属していた世界の秩序も価値観も全部キャンセルされてしまうということですね。
こういうのを中学に入った頃に教えてもらって、僕の世界の見方のいちばん深いところに影響を与えたと思います。だから最先端の情報テクノロジーが可能にするいろんな経験について考える時も、結局のところ自分は2,500年前の古代中国から見ているのではないかと思うのです。